2011.09.29 Thursday
どうしてだか
どうしてか、私は多分中学生の頃くらいから弟の卒業写真や、ちょっと人の態度を見たり話したりするだけで、その人の人となりを当ててしまうらしい。
「この人ってこんなことあったりする?」と聞くと当たってしまうのである。
そんな自分が分かっているので、いつの日か人と接する時には先入観を持たずに接し、もし心が離れているな、でもこれからのお付き合いも大切だな、と思ったら一緒に食事に行って仲良くしようとしたりもした。
でも、最近そうもいかなくなった。
やっぱり当ててしまう。
夫はこんな私を嫌うので、人に対する印象をよく付き合いもないのに言わない事にしているのだが、
どうにも身動きできなくなってきた。
やっぱり野生の勘?は大事なのである。
(ちなみに電車に乗る寸前に『痴漢に遭いそう!』とぞくっとくるとやっぱり痴漢に遭う。勘の後で車両を変えても一緒なのだ。)
自治会をやっていてもそう思う。
顔も名前も一致しないけれど、インターホンで喋っただけでもやっぱり当たってしまう。
でもうまくやらなくてはいけない。
話してすぐに対応を変えねばならないから。
それと人がウソをついている事。これもすぐにわかる。
こんな勘は特にいらない。
相手を疑うのだからやりきれない。
だからもう大切な人や本人が申告しない時には、突っ込んで聞かない事にしている。
こっちも気をもんで精神的に辛くなるし、相手と接しにくくなって関係が悪化するから。
ウソをつくだけの理由があるのだろうし、悪いと思ってるからウソをつくのだろうから。
それに私がウソをつかせているのかもしれない。
ただもったいないのが相手との関係が希薄になることだ。残念極まりない。
そしてそれが明らかになった時、なぜか自分を責めてしまう。
こうして改めて考えると、人間関係ってやっぱり私には辛いもののようだ。悲しくなるくらい苦しい。
苦しいのだ。
一人で自然を感じたり、動物と遊んでいる方が気持ちがどれだけ休まることか。
まぁ苦手な虫もいるけれど、川の音、次に聞こえてくる虫の声、空、雲の移り変わり、風、風にそよぐ木の音、波の寄せる音、鳥の声、一生懸命生きてる動物達。
皆ウソがない。
でも人間は社会があって存在できる動物だから全くの一人ってのはまず無理。
しかも私は健康体ではないし。
だから私は毎日絵を紡ぐ。
吐き出すように。
ドロではなく、感じたままの美しさやインスピレーションを吐き出す。
履き続けることで生きてゆく事が出来、それが生きている証にもなるのだ。
そして私はいつまで生き続けるのだろう。
その勘はまだない。
「この人ってこんなことあったりする?」と聞くと当たってしまうのである。
そんな自分が分かっているので、いつの日か人と接する時には先入観を持たずに接し、もし心が離れているな、でもこれからのお付き合いも大切だな、と思ったら一緒に食事に行って仲良くしようとしたりもした。
でも、最近そうもいかなくなった。
やっぱり当ててしまう。
夫はこんな私を嫌うので、人に対する印象をよく付き合いもないのに言わない事にしているのだが、
どうにも身動きできなくなってきた。
やっぱり野生の勘?は大事なのである。
(ちなみに電車に乗る寸前に『痴漢に遭いそう!』とぞくっとくるとやっぱり痴漢に遭う。勘の後で車両を変えても一緒なのだ。)
自治会をやっていてもそう思う。
顔も名前も一致しないけれど、インターホンで喋っただけでもやっぱり当たってしまう。
でもうまくやらなくてはいけない。
話してすぐに対応を変えねばならないから。
それと人がウソをついている事。これもすぐにわかる。
こんな勘は特にいらない。
相手を疑うのだからやりきれない。
だからもう大切な人や本人が申告しない時には、突っ込んで聞かない事にしている。
こっちも気をもんで精神的に辛くなるし、相手と接しにくくなって関係が悪化するから。
ウソをつくだけの理由があるのだろうし、悪いと思ってるからウソをつくのだろうから。
それに私がウソをつかせているのかもしれない。
ただもったいないのが相手との関係が希薄になることだ。残念極まりない。
そしてそれが明らかになった時、なぜか自分を責めてしまう。
こうして改めて考えると、人間関係ってやっぱり私には辛いもののようだ。悲しくなるくらい苦しい。
苦しいのだ。
一人で自然を感じたり、動物と遊んでいる方が気持ちがどれだけ休まることか。
まぁ苦手な虫もいるけれど、川の音、次に聞こえてくる虫の声、空、雲の移り変わり、風、風にそよぐ木の音、波の寄せる音、鳥の声、一生懸命生きてる動物達。
皆ウソがない。
でも人間は社会があって存在できる動物だから全くの一人ってのはまず無理。
しかも私は健康体ではないし。
だから私は毎日絵を紡ぐ。
吐き出すように。
ドロではなく、感じたままの美しさやインスピレーションを吐き出す。
履き続けることで生きてゆく事が出来、それが生きている証にもなるのだ。
そして私はいつまで生き続けるのだろう。
その勘はまだない。